古墳時代 

公開日 2012年10月04日

いせはらの歴史

古墳時代

古墳の築造

3世紀後半頃、近畿地方で大規模な古墳の築造が始まりました。時を同じくして瀬戸内海沿岸や九州、南関東地方にも前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と呼ばれる大型の墳丘をもつ古墳が出現し始めます。古墳は有力な豪族(ごうぞく)の墓ですが、単なる埋葬施設というだけではなく、権力の誇示(こじ)や継承(けいしょう)といった意味も込められた政治的なモニュメントでもありました。これからの約450年間、日本列島の各地に数多くの古墳が築かれる一時代が展開します。

石田車塚古墳(別名愛甲大塚古墳)写真

古墳にはさまざまな形がありますが、市内では方墳(ほうふん)、前方後円墳、円墳(えんぷん)が見つかっています。方墳は古墳時代を通して造られますが数は少なく、市内では4世紀半ばごろの塚越(つかごし)古墳(高森一丁目)が挙げられます。また池端の御嶽(みたけ)神社の東側にある大人塚(だいじんづか)古墳も同時期の方墳の可能性が高いと考えられています。

前方後円墳は古墳時代前期に多く造られ、4世紀後半頃までには東北南部から九州南部にまでに広く普及し、大和政権の勢力浸透の象徴とされています。市内では愛甲石田駅の南側に厚木市とまたがって位置する石田車塚(いしだくるまづか)古墳(別名、愛甲大塚古墳=あいこうおおつかこふん)があります。当初は円墳と思われていましたが、調査の結果全長70~80メートルの前方後円墳であることが分かりました。古墳時代の前期から中期にかけてこの地域一帯を治めていた有力豪族の墓と思われます。

右上の写真は、石田車塚古墳(別名愛甲大塚古墳)。全長70メートルを超える前方後円墳です。写真の茶色い部分が前方部と周溝です。

 

高森・小金塚古墳写真朝顔型埴輪

高森の小金塚古墳
直径46メートルの円墳です。
南関東最古といわれる朝顔形埴輪が出土しています。
朝顔型埴輪の高さは、79センチ4ミリ

また、古墳時代前期の円墳としては高森の小金塚(こがねづか)古墳が著名です。直径約46メートル、高さ6メートルの美しい墳丘をもち、南関東でも最古といわれる朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)が出土しています。この古墳も石田車塚古墳と同様、低地を見下ろす景色の良い場所に築かれています。また、市内に分布する古墳の大半を占める後期の円墳は、三ノ宮地区と高部屋(たかべや)地区を中心に、かつては数百基もあったといわれています。

古墳文化の中心

埒免古墳石室

6世紀頃になると全国的に大型の古墳は減少し、小型の円墳や方墳またはそれらが何百も集まった群集墳(ぐんしゅうふん)が造られるようになります。この時期の円墳は直径20メートルほどの大きさとなり、内部には遺体を納める部屋として、河原石(かわらいし)を積み上げた横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が組まれるようになりました。 市内に数多く残る古墳時代後期の円墳は、特に三ノ宮地区と高部屋地区に集中し、今でも丘陵のみかん畑の一角に石室に使われた大きな石が横たわっています。

そのなかでも三ノ宮地区の登尾山(とおのやま)古墳と埒免(らちめん)古墳は特別です。登尾山古墳は三ノ宮と坪ノ内の境に位置する古墳で、石室からは金銅製(こんどうせい)の馬具(ばぐ)や装飾大刀(そうしょくたち)、銅鋺(どうわん)、銅鏡(どうきょう)が、周囲の畑からは家や人の形をした埴輪(はにわ)の破片が出土しています。埒免古墳は、登尾山古墳の北方800メートルほどにあり、大きな石室の中から金銅製の馬具や柄(つか)に銀糸(ぎんし)が巻かれた装飾大刀などが見つかりました。墳丘も直径40メートルとこの時期としては群を抜いて大型です。これらの見事な工芸品は大陸から伝えられた先進技術を駆使(くし)して作られており、その技をもつ専門の製作集団は大和政権により管理されていたと考えられています。つまり、登尾山古墳と埒免古墳の豪華な副葬品がこの地にもたらされた背景には、大和政権の関与があったことは間違いありません。

上の写真は、埒免古墳の横穴式石室。大きな石を組んで部屋を造っています。
 

埒免古墳出土の杏葉写真

装飾大刀、馬具、銅鋺という副葬品の組み合わせは、各地の有力古墳でも確認されており、権力を保証する当時のステータスシンボルであったようです。登尾山古墳と埒免古墳の副葬品は、この古墳に当地域の最高権力者が葬られていることを示しています。

この両古墳の他にも、三ノ宮では装飾大刀の柄につけられた環頭(かんとう)が二つ見つかっていて、三ノ宮地区を相模国の国造(くにのみやつこ)の墓所とする意見もあります。また、日向の古墳からも金銅製の飾りがついた直刀(渋田1号墳)、鐔(つば)に銀の象嵌(ぞうがん)を施した大刀(洗水古墳)などが出土しています。神奈川県内で、大刀や馬具、装飾品がこれほど集中している地域はほかにありません。この当時、いせはらは相模を治める王者にとって最も神聖かつ重要な地域であったことが分かります。

埒免古墳の馬具
馬を飾る飾り板です。
鉄板と金を貼った銅板を重ねて造られています。
飾り板の大きさは、右上のもので14センチ4ミリです。

 

 

登尾山古墳の直刀
鐔と柄頭に金が使われています。刃渡りは、72センチ3ミリ。

副葬品分布図

古墳時代後期のステータスシンボルであった装飾大刀と金銅製馬具が出土した遺跡の分布です。県内では、いせはらに最も集中しています。

仏教文化の普及

日本に百済(くだら)から仏教が伝わったのは538年とされます。当時大和政権は、百済を通して中国や朝鮮半島の先進文物を手にしており、仏教もこうした外来文化のひとつでした。蘇我(そが)氏による飛鳥寺(あすかでら)の建立を手はじめに、7世紀初頭に聖徳太子が十七条憲法の中で仏教を公認するに至って、仏教は信仰として、また政治の手段として重要視されるようになります。

645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らによって蘇我氏が滅ぼされ、大化改新(たいかのかいしん)と呼ばれる政治改革が行われますが、ここでも仏教は手厚く保護されます。翌年に公布された大化の薄葬令(たいかのはくそうれい)は、巨大な古墳の造営を禁止した法令ですが、その背景には、仏教思想に基づく死生観や祖霊信仰(それいしんこう)の変化があったともいわれます。関東へ仏教が普及するのも、近畿地方とそれほどの時間差はなかったと思われます。

 

古い寺院のうち日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)は霊亀(れいき)2年(716)に行基(ぎょうき)によって、大山寺は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(755)に良弁僧正(ろうべんそうじょう)によって開かれたとされていますが、それ以前から仏教の片鱗(へんりん)はこの地に及んできていました。登尾山古墳に副葬された銅鋺は、本来は法具であり、少なくとも6世紀末には仏教文化がこの地にもたらされていたことを物語っています。

仏教思想の普及は、それまでの祖霊祭祀(それいさいし)のあり方に影響を与え、古墳の大きさで自己の力を誇っていた豪族の権力意識を変化させながら、古墳時代を終焉(しゅうえん)へと導いていきました。

上の写真は、登尾山古墳から出土した銅椀。もとは仏具です。
この時代の銅椀は県内で4例しか出土していません。
高さは、13センチ2ミリ。

 

法具:佛教の儀式に用いられるもの。

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文化財係
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