大山参詣の道(江戸から大山、大山山内、山帰り)

公開日 2014年01月22日

大山参詣の道

ここでは江戸以外の地域からの大山参詣の浮世絵は、ほとんど存在しないであろうと考えられることから、江戸府内の大山講中が、大山へ参詣して帰る行程を見てみたいと思います。旧暦の6月27日から7月17日までを夏山と呼びました。

大山参詣へ・両国の垢離場

浮世絵 貞房「東都両国夕涼之図」

          貞房 「東都両国夕涼之図」 天保末頃

川開きの花火見物客でにぎわう両国橋。大川(隅田川)には多数の舟が浮かんでいます。

浮世絵 貞房「東都両国夕涼之図」部分拡大

画面左端中央部に花火見物客とは一風変わった集団が描かれています。川中になにやら棒のようなものを持った人がいます。5人ほどは上半身が裸です。左手の赤い大きな提灯には「大山石尊」の文字がみえます。

江戸両国橋の東詰(今でいう両国駅側)に大山参詣のために身を浄める水垢離場がありました。ここで男たちは身を浄め大山の夏山に出立しました。手に持っている棒は木太刀(納め太刀)です。

なお、この垢離場では長屋で病人がでると、皆でそろって男も女も病気快癒を願って水垢離をとったそうです。

「ざんげざんげ六こんざいしやう おしめにはつだい こんごうどうし 大山大聖不動明王 石尊大権現大天狗 小天狗」という唱えが聞こえてきそうです。

浮世絵 芳幾「月尽面白寿語録」部分拡大

左の絵は芳幾の「月尽面白寿語祿」にある大川での水垢離風景です。手拭いで頬かむりしている男たちの顔をみると、いかにも庶民といった感じがします。芝居絵と大きく違う点です。江戸の町内から大山へ来る人たちは、例外はありますが中流以下といわれ、下町の職人たちが多かったようです。

ここの垢離場は、元禄年間から使われるようになったといいます。

 

東海道・神奈川

浮世絵 芳虎「金川ヨリ横濱遠見の図」

          芳虎 「金川ヨリ横濱遠見の図」 万延元(1860)年

東海道3番目の宿・神奈川の台からの風景で、遠くに富士、その右下に大山が描かれています。東海道は人通りが多いようですが、中央やや左下に笠を被った集団がいます。「大山石尊大権現」と書かれた木太刀もあります。大山講の一団です。

東海道・保土ヶ谷

浮世絵 北斎「東海道五十三次 保土ヶ谷」

北斎「東海道五十三次 保土ヶ谷」

中央に空の駕籠と鍬(くわ)を担ぐ男二人が大きく描かれています。右上には「是より右大山みち」と書かれた道標が立っています。絵からの印象では石柱ではなく、木柱であるかもしれません。保土ヶ谷で東海道を京方向に向かい右に入ると、厚木を経由して大山という道であったようです。道標の右手には不動明王の石像があります。

 

 

  

東海道・戸塚

浮世絵 広重「東海道五拾三次之内 戸塚元町別道」

広重「東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道」天保4(1833)年

戸塚宿の東海道から鎌倉道が分かれるところにある茶店「こめや」。その店先で馬から縁台の上に降りようとしている旅人と、それを迎える茶店の女性。茶店の軒先に下げられた「板まねき」には、「大山講」と書かれています。江戸の大山講がひいきにしている茶店なのでしょう。

この絵は初刷りですが、変わりの絵があり、遠景や店に格子が加えられ、旅人が馬に降りるのではなく、乗りこむところとなっています。

 

東海道・藤沢

浮世絵 広重「東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺」

広重「東海道五拾三次之内 藤澤遊行寺」天保4(1833)年

中央上に時宗の総本山・遊行寺、東海道沿いの町並、境川に架かる橋を大山講の一行が渡っています。木太刀や御神酒枠を担いでいます。

江戸方向から橋を渡って左手に行くと、江ノ島へ向かう道で、鳥居が立っています。

 

 

 

浮世絵 北斎「東海道五十三次 藤澤」

北斎「東海道五十三次 藤澤」

夜の東海道を行く大山講を描いたものと思われます。先頭は右手に高張り提灯、左手に鈴(れい)を持つ男二人。行衣(ぎょうい)を着ています。その後は、木太刀(奉納大山石尊大権現大天狗小天狗大願成就と書かれていると思われます)と、神前に納めるお酒が入った御神酒枠を担ぐ男が二人。後の男は団扇で前の男たちをあおいでいます。

月参講と書かれているので、月参りの講中と思われます。

 

浮世絵 立祥「東海道五拾三駅 藤澤 追分道」

立祥「東海道五拾三駅 藤澤 追分道」

二代広重の立祥の浮世絵です。初代広重も嘉永年間(1848~54)に同じところを描いています。 東海道の四ッ谷から右に曲がると、田村通り大山道となります。寒川町一之宮を経て、相模川田村の渡を越えるといよいよ大山が近づきます。

画面左に不動明王が立つ大山道道標があります。道の左右の茶店には布まねきが風になびいています。現在四ッ谷の大山道入口には道標を兼ねた不動明王像が残り、像から大山よりには、道をまたいで大山阿夫利神社の一の鳥居が立っています。なお、現在ある道標は造立年代からいって、この絵が書かれた頃には存在していたはずなのですが、不動明王像は絵にあるような立像ではなく、腰を掛けた状態の半跏像で、絵の像とは異なります。

 

 

 

相模川の渡し

浮世絵 国芳「相州大山道中田村渡の景」

国芳「相州大山道田村渡の景」天保5年頃(1834~5)

ゆったりと流れる大河・相模川田村の渡し。寒川町と平塚市田村の間の渡しです。対岸に大山、夏の雲が浮かび、低く霞がたなびいています。腹掛け姿の馬に乗った旅人、キセルをくわえた馬子。舟が1艘向こう岸に向かっています。夏の時間がゆっくりと動いています。

相模川の渡し場は上流から下流まで数多くありました。田村のほか、「厚木」「戸田」「馬入」の渡しが浮世絵に登場します。

 

大山山内

浮世絵 五雲亭貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」

          五雲亭貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」 安政5(1858)年

大山の入口から山頂石尊社までの大山寺境内地のみならず、富士山・高尾山・江ノ島・伊豆半島まで描いています。大山を中心に据え、大山から見えるところまでを画面に入れています。

浮世絵 五雲亭貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」部分拡大

さて、大山の入口、現在いうところの三の鳥居の前には懸樋(かけひ)で水を引いた唐金の水盤があり、滝のように水が流れ落ちていたようです。  良弁滝・大滝・新滝(愛宕滝)を過ぎ、男坂・女坂(さいの河原道とあります)の合流部には仁王門があり、本堂・不動堂が描かれています。まさに川柳にある「大山のヘソのあたりに不動堂」です。 「石そん宮のまへに大ひなる箱あり 真中ニ太刀納ル又とりかへる」とあり、不動堂の裏手に納め太刀を納め、交換するための箱があったようです。不動堂に向かって左手には旧暦6月28日に開扉される木戸があります。

浮世絵 五雲亭貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」部分拡大

さらに左手の山の稜線には蓑毛方面からの登拝に関係した木戸があり、山頂・石尊社(この絵では雨降神社)に至る道が2筋であったことがわかります。 神仏分離で記録類が散逸してしまった大山では、このような資料から復元を進める必要があります。

気になる点を一つ。安政元年の年末から翌年正月にかけて大山は大火に見舞われ、町並はもとより、不動堂まで焼失しました。この絵はそれ以前の姿を描いたものと思います。

大山では地域を上流部から坂本町、稲荷町、開山町、福永町、別所町、新町と6つの町内に区分し、呼んできました。各町内には新町を除き滝がありました。坂本町には元滝、追分滝、稲荷町には清め滝、開山町には大山寺開山良弁僧正の名が付いた良弁滝、福永町には新滝(愛宕滝)、別所町には禊の大滝です。中でも良弁滝は北斎・国芳・広重等により数多く描かれ作品が残っています。

浮世絵 前北斎為一「諸国瀧廻り 相州大山ろうべんの瀧」
前北斎為一「諸国瀧廻り 相州大山ろうべんの瀧」 文政末頃
浮世絵 広重「山海見立相模 相模大山」
広重「山海見立相撲 相模大山」 安政5(1858)年

北斎の絵は良弁滝を描いた浮世絵の中では早い方といえます。諸国瀧廻りのシリーズの中で選ばれた大山ろうべんの瀧」 文政末頃 ということは江戸で良弁滝がよく知られていたということの証左となります。

広重の絵は参詣者の滝垢離で賑わう良弁滝と違い、滝の音が響く中、逆に神仏のいます大山の静寂が伝わってくるようにも思えます。

浮世絵 五雲亭貞秀「大山良弁図」

          五雲亭貞秀「大山良弁図」 元治元(1864)年

大山夜雨

浮世絵二代豊国「名勝八景大山夜雨 従前不動頂上図」

二代豊国「名勝八景大山夜雨 従前不動頂上図」 
※昭和期の印刷物

二代豊国の傑作です。雨降山とも呼ばれる大山。大山の夜雨をついて前不動(追分にあった前不動ではなく、大山寺不動堂を山頂・石尊社に対して前不動としたようです)から木戸を通り山頂へ向かう参詣者。木太刀を担ぐ男(江戸時代女性は不動堂横の木戸から上は参詣できませんでした)、遠くに富士がかすんで見えます。

 

来迎谷

浮世絵広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」

広重「不二三十六景 相模大山来迎谷」
   弘化4年~嘉永5年(1847~1852)

江戸時代の大山山内図からの推定ですが、大山からヤビツ峠へ向かう分かれ道のところから山頂へ向かい、しばらく登ったあたり左手が、来迎谷と呼ばれていたようです。

西の富士方向に日が沈みかかると、その光はまさに阿弥陀如来のご来迎という感じがします。

絵にあるように両側から谷がせまり、中心に富士が見えるという地点は、残念ながら未確認です。よく晴れ風が強い日には、冨士見台や山頂の西側から富士山がよく見えます。

 

山帰り

浮世絵 芳虎「書画五拾三駅 相模藤沢山帰定宿」

芳虎「書画五拾三駅 相模藤沢
山帰定宿」明治5年

大山参詣を終えると、山帰りとなります。ただし家へは真っ直ぐに帰らなかったようです。落語の「大山詣」にあるように男だけの講中、神仏の前では神妙にしていたものの、山を下り相模川を越えると行楽という雰囲気になったようです。

右は明治維新後に板行(はんこう)されたものです。上半部の枠などに少し文明開化の匂いがします。上と下に分かれていますが、上は大森名産麦わら細工のまとい(纒)です。理由は不明ですが、大山帰りには付きものです。下は茶店でお茶を出す女性と、縁台の上に御神酒枠が描かれています。背景にはこの茶店をひいきにした講中の名を染め抜いた、「布まねき」が下がっています。

浮世絵 国貞「東海道五十三次之内藤沢図」

国貞「東海道五十三次之内藤沢図」

左の藤沢図には美人が大きく描かれています。何気なく大山講中を見ているようにも思えます。

木太刀や御神酒枠を担いだ大山講中の一行が江ノ島へ向かい、鳥居をくぐろうとしています。江ノ島の弁天様への参詣です。大山は男の神様、女性の神も拝まないと「片参り」といって、よくないものとされていました。

大山の帰りは江ノ島や鎌倉へも立ち寄ったことは、伊勢原市内の道標に彫られた地名からもいえます。

浮世絵 広重「東海道五十三次之内 藤沢」

広重「東海道五十三次之内 藤沢」天保末期

行書東海道と呼ばれるもので、江ノ島の鳥居を右に見て、恐らく江ノ島参詣が終わり、境川に架かる橋を渡り江戸方向に向かう大山講一行を描いています。一人は御神酒枠を担いでいます。

浮世絵 広重「五十三次之内保土ヶ谷 東海道五かたびらはし」

広重「五十三次之内保土ヶ谷 東海道五 かたひらはし」
 弘化4年~嘉永5年

保土ヶ谷宿の東を流れる帷子川(かたびらがわ)に架かる橋を渡る大山講一行です。宿場と川の位置から江戸方向に向かう、山帰りといえるようです。

先頭は木太刀を担ぐ男、三人目は御神酒枠を担いでいます。

広重「東京開化三十六景 八つ山下鉄道之夜景」

広重「東京開化三十六景 八つ山下鉄道之夜景」
明治初年

品川の八つ山下の夜、横浜方向へ向かう文明開化の象徴ともいえる汽車。台場の沖には大型船が停泊しています。東海道には東京へ帰る大山講の一団。大山講中が山帰りの土産にする、大森名産麦わら細工のまとい(纒)が御神酒枠と一緒に担がれています。文明開化風景の中に大山講を描いた浮世絵は何枚かあります。

浮世絵 広重「名所江戸百景 京橋竹がし

広重「名所江戸百景 京橋竹がし」    
安政4(1857)年

江戸時代に戻ってしまいますが、京橋を渡る大山帰りの一行がいます。周辺は房総などからの竹材が大量に集積されている竹がしです。空からは満月が明るく一行を照らしています。数人の男は大山帰りの講中が担ぐ大森名産麦わら細工のまとい(纒)を担いでいます。まとい(纒)を担いでいることから大山講中で大山帰りということがわかります。

無事に帰れた、我が家ももうすぐだ、という安堵感が伝わってくるような夏の夜です。

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