公開日 2023年02月17日
上粕屋・久保上遺跡
遺跡の概要
- 所在地
伊勢原市上粕屋字久保上1070-1外、字立原1398-1外、1416-1外、1421-2外、1610-2外 - 調査原因
伊勢原大山インターチェンジ土地区画整理事業に伴う発掘調査 - 調査期間
令和3年11月24日~令和4年7月1日(1エリア)
令和4年1月5日~令和4年9月2日(9エリア)
令和4年6月13日~令和4年10月31日(5エリア)
令和4年10月3日~令和4年12月23日(6エリア)
令和4年11月28日~調査中(横穴墓エリア) - 主な時代
縄文、弥生、古墳、奈良、平安、中世 - 遺跡の立地
大山裾野に広がる上粕屋扇状地内
本事業地は、市の北西部に位置し、小田急線小田原駅「伊勢原駅」から北西約3キロメートルの地点にあります。事業対象範囲は23.2haであり、地区北側に新東名高速道路伊勢原大山インターチェンジが隣接し、地区中央には、県道603号線や建設中の厚木秦野道路(国道246号バイパス)が縦断していることから、交通利便性の更なる向上が見込まれるエリアとなります。
こうした広域幹線道路の整備効果を生かした新たな産業用地の創出を目的として、令和3年1月8日付けで神奈川県知事から伊勢原大山インター土地区画整理組合の設立が認可され、組合施行による土地区画整理事業が開始されました。インターチェンジに近接する立地特性を生かした産業拠点として、区画道路や公園、調整池などの公共施設の整備改善とともに、新たな産業系市街地の形成が進められています。
上粕屋・久保上遺跡(伊勢原市No74,156,161,200,201)の調査は、事業地内を工事施工計画に則り、エリア毎に分割し、令和3年度の秋口から順次、調査を開始しています。
令和4年度は5つのエリアが調査されています。このうち、横穴墓を除く、4つのエリアの概要を報告します。
1エリア
1エリアは、伊勢原大山インターチェンジの東南東方向、約0.8kmに位置し、標高67.5~63.5mの場所に立地しています。
主体は中世の遺構群および古墳時代後期~平安時代の集落となっています。台地上は後世の耕作等による削平を受けていたため、中世および奈良・平安時代の遺構が概ね同一の遺構面で確認されています。
中世の遺構は、掘立柱建物跡25棟・竪穴状遺構22基・地下式坑5基・井戸2基・土坑44基・溝4条・柵列36条・ピット1787基が検出されました。分布は崖に近い調査区南側は希薄で、中央~西側にかけて集中している模様です。これらを区画している溝は最大幅1.5m、深さ2.0mで概ね南北方向に延びています。竪穴状遺構には、床面付近で灰を主体とし、炭化物や焼土が一面に広がっている例が散見されています。
遺物は12世紀後半~15世紀の陶磁器が出土していますが、主体は13世紀代と考えられます。また、かわらけ片が僅少なことも特徴です。
奈良・平安時代の遺構は、掘立柱建物址5棟、竪穴住居址14棟、円形土坑22基、ピット43基が確認され、竪穴住居址を中心に須恵器・土師器・灰釉陶器・金属製品・水晶製品が出土しました。
5・6エリア
5・6エリアは、産業能率大学から南東約200mに位置し、南東方向への緩傾斜地、標高77.5~75.4mの場所に立地しています。主体は中世と弥生時代後期~古墳時代前期となっています。
5エリアは、中世では調査区の北東端で東西方向に走る溝状遺構が5条検出されています。この溝状遺構は本エリアに隣接する神成松遺跡第3・4・7地点でも発見されており、これらの調査成果と合わせると約55mの長さになります。弥生時代後期~古墳時代前期では竪穴建物址が13軒発見されています。その中でも1号竪穴建物址は特徴的で、床面が壁面に沿って一段高くなる「ベット状遺構」と呼ばれる構造をもち、一段下がった床面と同じく非常に硬く踏み締められていました。
6エリアは、中世では土壙墓が発見されており、頭や足の骨の向きや位置から、頭を北にし、体は全体を横向きにして足は折り曲げられた状態で埋葬されていました。弥生時代後期~古墳時代前期では竪穴建物址が12軒発見されました。そのうちの2号竪穴建物址は主柱穴のほかに壁面に柱穴をもつ構造で、炉址のすぐ脇には表面に磨面をもつ人頭大の台石が置かれていました。
9エリア
9エリアは、産業能率大学と県道603号・厚木秦野道路線の間に位置し、南東方向への緩傾斜地、標高81.5~80.0mの場所に立地しています。
主体は縄文時代早期後葉・中期初頭~前葉・後期初頭~中葉となっています。現在、整理中ですが、縄文後期は、称名寺1(1はローマ数字)式~加曽利B2式まで継続的に見られており、それに伴う遺構群が広がっています。中でも、堀之内1式から加曽利B1式が比較的まとまっており、分布的には調査区中央から北西側へ広がっている模様です。
具体的には、堀之内1式期は竪穴建物址と埋設土器、堀之内2式から加曽利B1式期は配石遺構と墓壙群が検出されました。配石遺構には、長方形状に組まれたものや、平坦に敷き並べられたようなもの等が見られます。また、配石下から検出された幾つかの土坑(墓壙)の中には、小型土器が納められていました。土器は1点だけというものから、入れ子状のもの、数点重ねて納められているもの等、見受けられました。
中期は五領ヶ台式から加曽利E式まで見られますが、五領ヶ台式と勝坂3式が比較的まとまっています。竪穴建物址と土坑(含 墓壙?)が調査区北西から東・南東側に広がっている模様です。