伊勢原に残る伝承

公開日 2022年04月28日

頼朝を中心に、幕府に関わりのある人物にまつわる伝承・伝説が数多く残されています。

アンカー納め太刀(おさめだち)

納め太刀

江戸時代に流行した「大山詣り」において、大山に参詣するグループである「講」が地元から担いでくる木製の太刀。当初は30センチメートルほどでしたが、次第に競い合い、中には7メートルを超えるものも納められるようになりました。
 源頼朝が武運長久を祈願して自分の刀を大山寺に奉納したとされることに由来し、この木太刀に願いを書き、大山寺や山頂の石尊大権現に奉納しました。また、前年に奉納した太刀を持ち帰り、地元の社寺や自宅に飾ることも盛んになりました。その際、余所の講が奉納した木太刀を持ち帰ることもあったといいます。

 

アンカー日向薬師の大太鼓(ひなたやくしのおおだいこ)

大太鼓

頼朝が富士の巻き狩りに使ったものであり、娘の大姫の病気快復を祈願して薬師に奉納したといわれています。
 この太鼓に関しては、次のような逸話があります。日向山で、薬師のお祭りにこの大太鼓をたたくと、その音は山鳴りのように麓の村々を越えて須賀(平塚)の海辺へと響き渡りました。しかし、この太鼓の響きで須賀の海に魚がすっかり寄りつかなくなってしまい、困った漁師が薬師へ押しかけ、太鼓の皮を破ってしまいました。以来、この太鼓には皮を張らなくなってしまったといいます。

アンカー駒止め地蔵尊(こまどめじぞうそん)

駒止め地蔵

薬師参詣の際に、この場所まで来ると、頼朝の乗馬が急に立ち止まって進まなくなりました。怪しんで調べたところ、道ばたの草むらの中に地蔵尊を発見し、これを拝んだところ馬が進むようになったといいます。

アンカー擔桶橋(たんごばし)

たんご橋

頼朝一行が薬師参詣の際、川を渡る橋がないため、その付近の百姓たちが大急ぎで肥桶を集めて浮かべ、その上に板を並べて一行を通したそうです。頼朝はこのことに感謝し、この橋を擔桶橋と名付けたといいます。実際にそういった事実があったかは定かではなく位置も不明ですが、現在の西富岡地区の長竹の手前、渋田川に架かる橋を擔桶橋といいます。

アンカー洗水(あろうず)

洗水

日向の小字名。頼朝一行が薬師参詣の際に、渋田川で人馬ともに洗い清めたことから字名が付いたといいます。このあたりまでが鎌倉時代頃の日向薬師の境内だったようです。

アンカーお通り坂(おとうざか)

洗水にある諏訪神社前の急坂を「おとう坂」と呼んでいます。これはお通り坂が訛ったために「おとうざか」といわれますが、実際には諏訪神社のお堂があったことから「御堂坂」→「おとうざか」になったといわれています。
 頼朝はじめ、北条政子、実朝夫人等が日向薬師参詣のためにお通りになるというので、今の諏訪神社のそばを削り取って参詣道を新しく整備したそうです。現在の道とは違い、諏訪神社の上で左折して谷戸山の入口まで行き、そこで右折して「駒つなぎの松」(大松ともいう)の所へ出ました。

アンカー駒つなぎの松(こまつなぎのまつ)

駒つなぎの松

個人所有の松で、現在は3代目といわれます。2代目であった昭和初期までは、二株の大松が存在したそうです。この松に頼朝が馬をつないだといわれています。

アンカー馬場(ばんば)

具体的な場所は不明ですが、現在日向地区の地名として残っています。頼朝の随兵たちの馬置き場になった場所といわれています。戦国時代には小田原北条氏のために活躍しました。また、日向山の山伏たちの馬術の訓練場にもなりました。

アンカー千馬谷戸(せんまかいと)

日向の小字高橋にある小さな谷戸。頼朝の随兵たちの軍馬を沢山つないだので付いたといわれています。

アンカー衣裳場(いしば)

衣裳場

仁王門に上がる階段前の場所です。頼朝が参詣の折、ここで旅装を脱ぎ白装束に衣装をかえて参詣し薬師如来を拝したと伝えられています。

アンカー日向薬師の甲石(ひなたやくしのかぶといし)

甲岩

頼朝が娘である大姫の病気全快を祈って参詣したのが建久5年(1194)甲寅8月8日の薬師の縁日です。また、鎌倉公方の足利基氏が来山したのが観応元年(1390)12月27日、同じく寅年となっています。このように当時の武士の権力者たちが信仰したので、参道の石にかぶとに似た石を甲石と名付けました。仁王門を過ぎ、参道を少し登ると右側に見えます。
 また、頼朝に関しては、寅年の寅刻(午前4時頃)に参詣しています。虎のように強くなるようにと乞い願った昔の人々が、境内の石までも強い武士にあやかって甲石と呼んだと考えられます。

アンカー日陰道(ひかげみち)

「かながわの古道 50 選」のひとつに選ばれています。北向きの土地で日陰になるところから、この名が付けられたと言われています。全長 1.5キロメートルほどののどかな道で、初夏にはアジサイ、秋には彼岸花と季節の花々を楽しむことができ、20年以上前から地域の人々の手で整備が行われています。
 頼朝一行が霊山寺に参詣した際に、家臣達が通った道とも、北条政子が通った道ともいわれています。

アンカー片葉のあし(かたばのあし)

方葉のあし

岡崎四郎義実の子、荒千代(真田与一)の乳母である吾嬬(あづま)に関する逸話が残っています。荒千代が難病にかかったとき、吾嬬は毎晩深夜に大山の不動尊へ病気平癒を祈願しました。満願に近い一夜、帰路の途中に暴漢に追われ、とっさに葦の間に身を潜めました。すると茂り合った葦の葉が一方になびいて、吾嬬の身を覆い隠したために危機を免れたそうです。それから、そこに生える葦は一方にしか葉を出さなくなり、吾嬬の忠心をめでて片葉の葦というようになりました。

イラスト:いせはら観光ボランティアガイド&ウォーク協会『伊勢原観光ガイドマップ』より

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