関連する寺社・史跡

公開日 2022年04月28日

幕府に関わりのある人物が訪れた、あるいは関係する寺社・史跡が市内に所在しています。

アンカー大山寺

画像:大山寺
大山寺本堂

天平勝宝7年(755)に良弁僧正により開創された、聖武天皇の勅願寺。
 鎌倉時代初期、現在の本尊である鉄造不動明王(国指定)はまだなく、現存する中では平安時代作の木造不動明王(県指定)が該当します。
 寿永3年(1184)、源頼朝は大山寺に田畑を寄進します。この時期、義経率いる源氏軍が平家の追討をしており、同年の一ノ谷の戦いには糟屋有季も従軍しています。そのため、大山寺への寄進は戦勝祈願の意味があったと考えられます。翌年、壇ノ浦の戦いにて平家滅亡。江戸時代に流行する「納め太刀」の謂われもこうした出来事を踏まえたものと考えられます。

アンカー霊山寺(現:宝城坊)

宝城坊本堂
宝城坊本堂

現在の日向薬師宝城坊。霊亀2年(716)、行基により開創され、鉈彫の薬師三尊像(国指定)を本尊としています。
 頼朝の妻・政子の実家である北条家はもともと伊豆の出身であり、頼朝が鎌倉に幕府を開いた後も、伊豆、箱根、相模の神社仏閣と深い関係がありました。
 そのため、頼朝は政子の安産祈願のため神馬を奉納し(1192年)、大姫の病気平癒には参詣もしています(1194年)。この時に頼朝が参拝した仏像は、現存する本尊の薬師三尊像(国指定)、十二神将立像(県指定)と考えられます。また、建久年間には後鳥羽天皇により、堂の修造を命じられたとされます。宝城坊本堂の調査によると、現本堂に使用されている部材には、鎌倉時代初期に伐採されたものがあることが判明しています。
 頼朝が亡くなった後は、政子が2度参詣し(1210、11年)、2度目は将軍の実朝夫人を伴い、一泊しています。この時期に制作されたとされる薬師如来坐像(国指定)や阿弥陀如来坐像(国指定)と関係づけ、その開眼式への参列とする説もあります。この頃、他にも日光・月光菩薩立像(国指定)や四天王立像(国指定)、賓頭盧尊者坐像(市指定)が奉納されており、霊山寺が大きく発展した時期となります。

アンカー比々多神社

三之宮比々多神社
比々多神社拝殿

三之宮比々多神社は、10世紀前半に編さんされたとされる延喜式神名帳にも記される長い歴史を持つ神社です。
 祭神は豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)で、国土創造の神を祀っており、そのほか酒解神(さかときのかみ)を合祀しているので、酒造家の間に崇敬されています。
 神社周辺には、6世紀後半から7世紀にかけての古墳が数多く分布しており、大山の山裾にあたる当地が死者を葬る聖地として選ばれたと考えられます。
 神社に併設されている郷土博物館には、関東最古と伝えられる木造の「こま犬」のほか、近隣の古墳群から出土した馬具や大刀、玉類、土器などの副葬品が、展示されています。副葬品の質は極めて高く、当時の相模における最高権力者に供えられた副葬品と考えられます。
 平安時代の天長9(832)年には、淳和天皇が「冠大明神」の神号を贈り、建久3(1192)年には、源頼朝が妻政子の安産を祈願して比々多神社に神馬を奉納しています。
 安土桃山時代に社地を埒免(恵泉女学園付近)から現在の位置に移し、江戸時代になってからは、幕府より社領10石の朱印地が与えられています。
 比々多神社で行われる祭事はとても賑やかで、毎年4月22日に行われる例大祭は、3基の山車が練り歩く近在きっての祭典行事です。また、5月5日に大磯町で行われる、相模の国の一之宮寒川神社からから総社(五之宮)平塚八幡宮、総社六所神社が集まる国府祭(こうのまち)においては、比々多神社が一之宮と二之宮を仲裁する重要な役割を果たします。

アンカー浄業寺

浄業寺
浄業寺跡

建仁元年(1201)、北条政子が頼朝の菩提を弔うため、市内三ノ宮に建立した寺院。釈迦三尊像を祀るとされます。
 戦国時代には太田道灌とも親交のあった連歌師心敬が隠棲し、江戸時代には黄檗宗の寺院となりますが、明治初期に廃寺となりました。

アンカー糟屋荘

糟屋荘は、久寿元年(1154)鳥羽上皇が京都伏見に建立した安楽寿院領の荘園として成立しました。平治元年(1159)には、鳥羽上皇の皇后である美福門院の申請により課役免除が承認されています。当荘の開発領主である藤原元方が、荘名をもって糟屋氏を名のり、以来その子孫が在地領主になりました。糟屋郷を中核として、白根・善波・大竹・大山・板戸・坂本・富岡・櫛橋・四宮・城所などの範囲を含むと考えられます。
  美福門院の子・近衛天皇は病弱で目を患っており、霊山寺の銅鐘が鳥羽上皇の院宣により改鋳される(1153)のは、眼病平癒を願う霊山寺への祈願であり、翌年に安楽寿院領の荘園となることとも無関係ではないと考えられます。その後、糟屋荘は美福門院の娘・八条院暲子へ伝領されます。

宝城坊銅鐘
霊山寺(現:宝城坊)の銅鐘

アンカー極楽寺

糟屋一族の墓
糟屋一族の墓(移設前)
 
 

かつて市内上粕屋にあった糟屋氏の菩提寺です。
 建久7年(1196)、糟屋有季が銅鐘を奉納したと記録にあります。明治初期に廃寺となり、銅鐘も消失しましたが、江戸時代に採られた銅鐘の銘文が残されています。
 極楽寺跡とされる地には板碑(1352年銘)、五輪塔、宝篋印塔等の中世石塔群とともに極楽寺歴代住職の墓石(近世)が残されていました。跡地の発掘調査では、鎌倉時代の蔵骨器が出土しています。

 

アンカー子易、上粕屋の中世遺跡

子易・中川原遺跡石敷
中世石敷きの道(子易・中川原遺跡)

新東名高速道路等、市内で実施されている高規格道路の建設に伴う発掘調査では、中世の館跡等多くの遺構が発見されました。主に掘立柱建物と溝からなる館群が少なくとも3箇所確認され、さらに、湯屋と推定される遺構、人頭大の石を敷き詰めた道状遺構、また、墳墓を伴う仏堂、池等からなる浄土庭園等も確認されています。時期は、鎌倉時代前期の12~13世紀から始まるようです。こうした遺構は、鎌倉でもなかなか見つからないもので、この地が鎌倉と深いつながりを持ちながらも、独自の特性を有していたと考えられます。
 当地が属す糟屋荘は糟屋氏が荘司を務めていましたが、1203年の比企の乱で糟屋氏の主流は滅んでおり、13世紀にこれらの施設を利用した人物を追求する必要があります。

アンカー安楽寺

明治初頭まで子易に所在した寺院です。本尊は平安時代後半作の阿弥陀如来坐像で、現在は宗源寺に移されている。
 新東名高速道路のトンネル出入口部分に当たり、建設に伴う発掘調査では鎌倉時代にまで遡る寺院の跡が確認されました。遺構は、基壇の上に礎石が並び、左右にも対称に礎石建物が配置されています。床下に墓を伴う仏堂が建ち、正面には池が設けられ、浄土庭園となっています。現在までの調査成果では、13世紀には造営されたと考えられています。

中世寺院跡
上空からみた子易・中川原遺跡の寺院跡
(公益財団法人かながわ考古学財団『令和3年度発掘調査成果発表会資料集』より、一部改変)

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