ゆかりのある人物

公開日 2022年04月28日

幕府の中心人物であった源頼朝や北条政子をはじめ、伊勢原にも鎌倉幕府の要人が深く関わっていました。

源頼朝(みなもとのよりとも)

頼朝と伊勢原は意外と深いつながりがあります。幕府が編さんした歴史書『吾妻鏡』にも記載があり、「元暦元年九月十七日癸卯。相模國大山寺。免田五町。畠八町。任先例可引募之由。今日下知給云々。」と記されています。これは田畑を大山寺に寄進していることを表します。壇ノ浦の戦い前という源平の争乱の佳境である時期からすると戦勝祈願である可能性も考えられます。
 また、建久3年(1192)には妻の政子が3代将軍となる実朝を出産する際に、安産を祈願して相模国中の寺社に神馬を奉納したとあります。その中に大山寺、霊山寺(現:宝城坊)、三宮冠大明神(現:比々多神社)の名を見ることができます。翌々年には娘大姫の病気平癒の祈願で霊山寺に参詣している記録があり、伊勢原の地、特に霊山寺を手厚く信仰していたことがわかります。市内には頼朝がこの霊山寺に参詣した際にまつわる逸話がいくつもあり、現在まで語り継がれています。

浮世絵に描かれた頼朝上洛の場面
浮世絵に描かれた頼朝上洛の場面

 

北条政子(ほうじょうまさこ)

頼朝が深く信仰していた霊山寺について、妻の政子も直接参詣している記録があります。特に頼朝の死後12年後にあたる建暦元年には「尼御臺所并御臺所御參相模國日向薬師堂」との記載があります。この尼御臺(台)所とは政子を指し、御臺所とは3代将軍である実朝夫人である坊門信淸女のことを指します。頼朝夫人と当代の将軍夫人が揃って参詣するということ、さらに時期からも考えると頼朝の一三回忌に訪れている可能性が考えられます。そういった場にこの寺を選んでいるということも、薬師に対する信仰心の深さが感じられます。
 また、現在は廃寺となっていますが、建仁元年(1201)、三ノ宮に浄業寺を創建しました。当時は釈迦三尊像を祀っていましたが、戦国時代に一度荒廃しています。江戸時代に黄檗宗の僧、独本性源禅師が再興したものの、明治期に廃寺となってしまいました。現在は黄檗宗時代の僧の墓が残されているのみですが、近年実施された高速道路開発に伴う発掘調査により、関連をうかがわせる遺構群が確認されています。

画像:日向薬師参道
頼朝や政子も歩いた(?)日向薬師参道

 

比企能員(ひきよしかず)

埼玉県比企郡の出。比企尼(ひきのあま)は京都で頼朝の乳母を務めていました。頼朝が伊豆に流されると故郷の比企に戻り、その後も流された頼朝に物資を送るなど、献身的に支援を続けました。平家の世においては危険な行為であり、頼朝から厚い信頼を得ることとなりました。後の御家人13人の一人となる甥の能員(よしかず)を養子として跡継ぎとしました。
 娘は二代将軍、源頼家の乳母となります。孫の若狭局(わかさのつぼね、能員の子)は二代将軍頼家(よりいえ)の妻となり、その子である一幡(いちまん)は頼家を継ぐ三代将軍の有力候補でした。同じく孫の姫の前(ひめのまえ)は美貌の才人として名高く、北条義時の妻となります。
 頼朝を不遇時代から支えてきた比企氏は、二代頼家の育ての親となり、次の跡継ぎ候補一幡の外戚(母、祖父)でもあり、最も重用されるポストを得ていました。
 鎌倉時代は、その後の時代より妻の発言力が強く、妻の実家も一族として権威を有していました。また、武士の子は乳母の家で育てられることから、成人となってからも、乳母、乳母の実家と強く結びついていました。

糟屋藤太有季(かすやのとうたありすえ)

糟屋氏は藤原氏の一族で、平安時代末に藤原如丘(ゆきたか)が相模守として東国に下向し、そのまま任地に土着して糟屋と名乗りました。極楽寺に鐘を奉納した糟屋藤太有季は、如丘より下ること五代後の糟屋家当主であろうとされます。下糟屋の丸山城公園はかつて有季が居館としたとされる丸山城であり、新編相模国風土記稿には糟屋左衛門尉有季居蹟として紹介され、「東西百間余、南北百十間余、四面ニ堀ノ遺形アリ」と記されています。
 伊勢原市域の大部分は、当時糟屋荘という荘園であり、鳥羽上皇の御所である京都伏見の鳥羽離宮内に所在する安楽寿院の領地となっていました。安楽寿院領の領主は鳥羽上皇、美福門院(鳥羽上皇の皇后)、八条女院(美福門院の娘)へと移りかわっていきますが、糟屋荘を現地で治めていた荘司であったのが糟屋有季です。
 有季は頼朝の家臣としてめざましい働きをし、源義経とともに一ノ谷の戦いで平氏を攻め、頼朝の上洛にも随行しました。頼朝の没後、北条時政と子の義時を中心とする北条氏と、二代将軍頼家とその乳母家であり妻若狭局の実家でもある比企氏の権力争いが激化すると、有季も若狭局の妹を妻としていたことから比企氏の一員として戦いに巻き込まれます。建仁3年(1203)、比企氏の乱により、能員が北条氏に謀殺され、鎌倉の比企館が襲撃されます。有季は自害し、頼家の子、一幡も殺され、鎌倉殿を支える勢力争いは北条氏の勝利となります。
 市内上粕屋地区にはかつて極楽寺という寺がありました。そこには有季が建久7年(1196)に奉納した梵鐘があったそうです。その銘文は、かつて歴史学者の吉田東伍に「関東の古鐘のうちでこの鐘の銘文の雅麗さにおよぶものはない」とまで絶賛された逸文でした。作者は源頼朝に仕えた三善宣衡です。しかし、この鐘も明治初年の廃仏の厄に遭い、失われてしまいました。極楽寺跡とされるあたりに糟屋一族の墓と称する古い石塔群がありましたが、現在では新東名高速道路建設用地となったため、石塔群は上粕屋の洞昌院に移されました。なお、移設前の石塔群の下を発掘調査した結果、中世、鎌倉時代の蔵骨器が出土しました。石塔は15~16世紀と新しいものでしたが、蔵骨器の年代としては糟屋氏との関係を匂わせる結果となりました。
 また、新東名高速道路の建設に伴う発掘調査では、市内の子易、上粕屋で13世紀頃の館跡等が見つかっています。こうした施設の持主が糟屋一族である可能性も指摘されています。

画像:丸山城跡
丸山城跡

 

岡崎四郎義実(おかざきしろうよしざね)

岡崎義実の墓
岡崎四郎義実の墓(平塚市)

岡崎氏は、桓武平氏の系統を引く三浦一族の支族です。三浦の衣笠(横須賀市)の城主三浦庄司義継の四男、三浦四郎義実が相州岡崎郷に城を築いてこれに住し、地名をとって岡崎義実と称したことにはじまります。
 義実の長兄は衣笠城を継いだ三浦大介義明で、治承四年(1180)に源頼朝の石橋山挙兵に応じて立ち上がり、頼朝敗北の報を聞くと平氏の攻撃を一手に受けて応戦し、衣笠城を枕に討死した勇将でした。
 岡崎義実もまた、あまりにも強かったために「悪四郎」と呼ばれたといういわれをもつ豪勇であったそうです。頼朝が石橋山に挙兵したときにはすでに69歳という年齢でしたが、先陣に立って平氏の先手大庭三郎の軍勢と戦いました。このとき、義実の嫡子真田与一義忠は、敵の猛将俣野五郎景久を組み敷きながら、俣野の郎党によって討たれています。齢二五の若武者でした。
 義実は石橋山の合戦以後も頼朝につき従って行動し、頼朝とは主従を越えた公私にわたる深いつながりがあったようです。鎌倉幕府が成立するのを見届けると、その翌年、義実は老いた身を引いて出家しています。
 岡崎氏は三浦の四棟梁(三浦、和田、佐原、岡崎)のひとつに数えられ、鎌倉幕府に重きをなす臣下となっていましたが、義実の晩年はあまり恵まれなかったようです。正治2年(1200)3月14日、頼朝亡き後尼将軍と呼ばれた北条政子に家道の貧を訴えましたが、芳しいはからいを受けないうちに、その年の6月21日には鎌倉由比ヶ浜の自邸で89歳の生涯を閉じました。
 義実が居城としたとされる岡崎城が市境をまたいで現伊勢原市の南東部、平塚市の北東部の範囲で確認されており、伊勢原市の指定史跡となっています。また、息子与一の乳母である吾嬬(あずま)に関する逸話「片葉のあし」が語り継がれています。

石田次郎為久(いしだじろうためひさ)

石田為久の墓
石田次郎為久の墓(円光院)

石田郷の地名をとって石田姓を名乗った石田次郎為久は、相模土着の豪族、三浦氏一門の人です。また、相模岡崎城主であった岡崎四郎義実の兄、芦名三郎の孫にあたります。
 寿永3年(1184)1月20日、源頼朝の命を受けた範頼・義経の連合軍は、いち早く入京していた木曾義仲を攻めました。北陸へ落ち延びようとした義仲でしたが、途中、近江粟津の原(滋賀県大津市)において石田次郎為久に討たれ、31歳の生涯を閉じました。為久は三浦の一党としてこの軍勢に与し、深い泥沼にはまり込んで身動きのとれなくなっていた義仲を見るや、弓を引き絞ってその兜を射貫いたそうです。その功績から、石田次郎為久の武名はたちどころに全国に轟いたといいます。
 為久が居城としたといわれているのが石田城です。城跡は石田の小字引地から外堀にわたる台地の突端にあったといわれていますが、付近で実施したこれまでの発掘調査では、確たる資料は確認されていません。
 為久以後の一族も、鎌倉幕府の御家人としてこの石田郷を治めていたようですが、宝治元年(1247)の三浦合戦で、石田大炊助という人物が自害してからは、記録の上からその姿を消してしまいます。円光院裏の墓地には、石田次郎為久の墓がありますが、これは後の時代(昭和期)に造られたものです。

 

北条氏と比企氏を中心とした人物相関図

人物相関図

 

このページの
先頭へ戻る