伊勢原の鎌倉時代

公開日 2022年04月28日

平安時代の終わりから鎌倉時代までの間は、貴族の世から武士の世にへと移り変わる激動の時代でした。そのような中、伊勢原にゆかりのある武士や寺社もその情勢に深く関わっていました。

平家追討から鎌倉幕府の成立

延暦13年(794)、桓武天皇は京都に都を移し、そこを平安京と名付けました。ここに王朝文化が花開く平安時代が始まりました。
 京の都を頂点として日本列島の各地は中央集権体制に組み込まれたかに見えましたが、平安時代も半ばを過ぎるとあちらこちらに綻びが生じ始めました。
 中央の貴族や寺社は荘園と呼ばれる私的所有地を拡大し、律令制の財政基盤であった土地制度を根本から覆す結果を招きました。朝廷の地方支配は弱体化し、各地で武装化した地方豪族が権力を握るようになりました。朝廷はこうした地方の武装集団に対抗するために、やはり同じように武力をもつ者に頼らざるをえなくなり、結果として武士団の形成に拍車をかけることとなりました。
 平清盛(たいらのきよもり)は、天皇と姻戚関係を結び、平氏政権を打ち立てました。しかし、それは逆に強い反発を買い、東国で力を蓄えつつあった源氏を挙兵させることとなりました。源平合戦はその舞台を西へ西へと移しながら激しさを増し、文治元年(1185)、壇ノ浦で平家一門が滅亡して幕を閉じます。
 源氏の棟梁である源頼朝は征夷大将軍に任命され、建久3年(1192)、鎌倉を本拠とする幕府を開きます。この鎌倉幕府の創立以後、明治維新に至るまでの650年余りにわたって、武士の世が続くことになります。

石橋山敗戦
石橋山の合戦で破れた頼朝が房州へ落ちる場面。後方には岡崎四郎義実の名が見えます。
 
 

鎌倉武士といせはら

真田与一
義実の息子、真田与一

平家追討の狼煙があがった頃、このいせはらの地にもすでに武士が誕生していました。市内岡崎の無量寺周辺から平塚市域にかけては、岡崎城と呼ばれる居館があったといわれています。城主、岡崎四郎義実は三浦半島に本拠を置く三浦氏の一門で、義実は源頼朝より30歳以上も年上でしたが、石橋山の戦いには息子の真田与一とともに参戦し、その後も頼朝につき従って鎌倉幕府成立の功臣となりました。
 同じ三浦氏の一族で、当時石田を本拠にしていたのが石田次郎為久です。為久は源範頼、義経らの木曽義仲追討軍に加わり、北陸へ落ち延びようとした義仲を討ち取った当事者です。石田の円光院北側の台地が石田氏の館跡といわれています。
 東の石田、南の岡崎に挟まれて、平安時代の終わり頃のいせはらの大部分は糟屋荘(かすやのしょう)と呼ばれる荘園となっていました。この糟屋荘に館を構えていたのが糟屋藤太有季(かすやとうたありすえ)です。
 糟屋氏は三浦氏と同様に早くから源氏に従っていましたが、糟屋有季の父盛久(もりひさ)は石橋山の合戦には平家方の武士として名を連ねています。しかしその後、有季は源範頼、義経の平家討伐軍に源氏の兵として従軍し、平家滅亡後には頼朝の命に応じて義経追討の任にもついています。また、頼朝が上洛したときにも、岡崎義実らとともに随行しています。

粟津が原
江戸時代の浮世絵に描かれた石田次郎為久が木曽義仲を討つ場面

頼朝と政子

鎌倉幕府の創始者となった源頼朝もまた、いせはらには深い関わりをもっていました。元暦元年(1184)、頼朝は大山寺に田畑を寄進し、妻の政子が実朝を出産する際には、相模国中の神社仏閣に神馬を奉納しています。その中に大山寺、日向山霊山寺(現在の宝城坊)、三宮冠大明神(現在の比々多神社)の名があります。建久5年(1194)には娘大姫の病気平癒を願って霊山寺に参拝し、その後も使者を遣わして自らの歯の病が治るよう祈願しています。その妻政子も頼朝の死後、二度にわたって霊山寺に参拝しました。さらに、亡き夫を祀って市内三ノ宮に浄業寺を建立したといわれています。
 源家による将軍が三代で絶えると、鎌倉幕府は執権の北条氏によって運営されるようになりました。100年以上に及ぶ北条氏の治世には、武家による政治制度が整えられましたが、相次ぐ天災や飢饉が一揆を引き起こし、また元軍の襲来や相変わらずの政権争いが社会を揺るがしていました。皮肉なことに、こうした社会情勢が平安時代とは異なる厳しくひたむきな仏教を興隆させ、市内にも鎌倉時代の造立とされる仏像が宝城坊の十二神将像、大山寺の鉄造不動明王像など、二十数体残されています。

十二神将像
宝城坊の十二神将像

鎌倉時代の市域と武士達の動向

鎌倉幕府創業者の頼朝が亡くなると、北条氏が政権の中枢を握るようになり、幕府内の有力武士の力をそぐ方向に進みます。伊勢原市内の武士も北条氏の陰謀にからみ、その嫡流は消えていきました。
 まず、建仁(けんにん)3年(1203)に起きた比企(ひき)氏の乱により糟屋有季が比企一族とともに自害しました。この後糟屋荘の支配は糟屋氏の手を離れたと思われます。糟屋氏の嫡流(ちゃくりゅう)は失脚しましたが、これ以降も糟屋氏は歴史に名前を残しています。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が幕府を相手に起こした承久(じょうきゅう)の乱では、上皇方、幕府方ともに糟屋を名乗る武士が登場します。有季の兄弟の子孫と思われる糟屋氏は北条政村の子孫に仕えていましたが、鎌倉幕府滅亡時、近江(滋賀県)番場(ばんば)宿で北条氏らとともに自害し、その墓は番場の蓮華寺にあります。
 建保元年(1213)には、和田義盛(わだよしもり)が北条氏に対し反乱(和田合戦)を起こし、和田方に加わった岡崎義実の子どもらが滅び、岡崎の地は没収されました。 
 さらに、宝治元年(1247)三浦泰村(みうらやすむら)は北条方の安達景盛(あだちかげもり)らに挑発され、反乱(宝治合戦)を起こしました。この乱に敗れ三浦一族石田氏の本領石田の地は没収されました。
 鎌倉幕府が滅び、後醍醐(ごだいご)天皇は足利尊氏・直義(ただよし)に北条氏の旧領を与えました。その所領目録によると、糟屋荘は、北条氏の一族大仏貞直(おさらぎさだなお)の所領であったようです。

 

歴史年表

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