公開日 2015年12月17日
更新日 2022年03月23日
両武坂(二人の武士の坂)
昔善波に武勇にすぐれた今井某と樋口某という勇敢な二人の武士が同じ場所に住んでいました。二人の武士は昔お世話になったお礼にと庵主様の住む勝興寺に門前で庵主様を守っていました。
二人の武士が亡くなったあと勝興寺の門前の両脇に祀られ勝興寺を守っていたという話です。二人の勇敢な行為と善意を偲び、いつしか村民は門前の坂を「両武坂」と呼ぶようになったと伝えられています。
善波には二人の名の付いた坂が他にもあります。
新編相模風土記稿によれば、古来より名の付いた坂が六つあります。上の坂、下の坂、石の坂、切通し坂、今井坂、樋口坂です。
この内四つは矢倉沢往還に付けられていますが、今井坂と樋口坂は矢倉沢往還より勝興寺に通じる途中の坂を呼んでいました。今は地形も変わり知る人は少なくなっています。
また、矢倉沢往還沿いの久保地区に抜ける川沿いの沢を今井沢といい、この地名は今でも残っています。
善波には、古来より大字が四つあったことが新編相模風土記稿に記されています。獅子久保、今井、久保、西玉です。大字の中の地名にも今井某の名が使われています。今井地区は現在の笠谷戸地域のことをいいます。今井という地名は江戸時代後期まで使われ、その後笠谷戸と呼称するようになったと思われます。
旧家に江戸時代後期に大山参りに使用したと思われる携帯箱書きに笠谷戸の字が使われていることから判断されます。
今井某は善波と羽根に広大な土地を所有していたといわれ、子孫は明治初頭秦野市羽根に住まいを移したと言われています。
羽根には今も今井一族の記念碑が山裾に残されています。
(参考資料)
- 善波の古文書(十題併序)
- 新編相模風土記稿